幻のテレビ付きパチンコ
パチンコのユルイ雑学 2020/9/1
パチンコは、戦後の復活以来ずっと「大衆娯楽」のトップを走って来たわけですが、長い歴史の中で、そのトップの座を脅かされたとことがありました。
中でも昭和の中頃、家庭でのテレビの普及によって人気が急下降した時がありました。
夜ともなれば「プロ野球」や「ドラマ」などの人気番組のために、放映時間になるとパチンコ店からお客さんが消えるようになったのです。
令和を迎えた現在の日本では、人々の興味や趣味、ツールは多様化しており、「全国共通」のような話題や流行は少なくなりました。
人それぞれ違った行動や時間を過ごすのが現代のライフスタイルになりつつあります。
一方の昭和時代は、「大流行」的な物事が毎年起こるという時代で、情報発信の中心となったのはテレビであり、流行の多くはテレビから生まれたことが多かったのです。
テレビの歴史を見てみると、NHKがテレビ放送を開始したのは昭和28年(1953)の2月(民放は8月)。この年国産初の白黒テレビも発売されましたが、その値段は約30万。
当時のサラリーマンの月給が約3万ですから、到底一般庶民が買える値段ではありませんでした。
そこで人気を集めたのが街頭テレビです。特にプロレスや大相撲放送は絶大な人気で、街頭テレビの前は黒山の人だかり・・・まさに「社会現象」がテレビから生まれたことを示す好例です。
テレビが情報発信機器としていかに画期的だったかが分かります。
さらに昭和35(1960)年からは、カラーの本放送が開始されました。国産カラーテレビはその3年前に発売されていましたが、この時はまだ白黒テレビの普及率は約30%ほどで、昭和43(1968)年でもカラーの世帯普及率は約10%、白黒は約96%でした。その後は昭和39年(1964)の東京オリンピックを境にテレビの普及が進み、昭和49(1974)年には世帯普及率でカラー85%、白黒48%と逆転しました。
そして昭和51(1976)年には、カラーテレビの普及率は94%となり、昭和50年代初頭にテレビ全盛の時代を迎えたのです。
テレビ放送が始まった昭和35年(1960年)頃は、世の中の話題の中心は「巨人、大鵬、卵焼き」と言われていました。
これは高度成長期の流行語で、プロ野球の巨人、大相撲力士の大鵬、食べ物の卵焼きと、当時の子供に人気があるものを挙げた言葉です。テレビの普及により、日本人の興味が統一されていたことを表す好例です。
特に昭和52、3年からはプロ野球の「ナイター中継」が始まり、1990年代までテレビのキラーコンテンツとして抜群の視聴率を稼ぎました。中でも「巨人戦」は大人気で、翌日のおじさんの話題はほぼナイターの巨人戦でした。
一方、パチンコ店では夕方以降はテレビを見るため帰宅する人が続出し、すっかり客足が遠のく事態となりました。
そうした中、昭和52年(1977)に業界に一石を投じる機種が登場します。
それが「テレビ付きパチンコ」です。
「これさえあれば、プロ野球中継が始まってもお客さんは帰らない」
この発想力は凄いですね。
しかもその発想を具現化した技術力も相当です。なにせ当時のテレビ画面は薄い「液晶」がまだ無く、ブ厚い「ブラウン管」でした。かなりな奥行きが必要でしたが、それを盤面中心に役物のごとく据えたのです。
これは一種の“発明”と言ってもいいかもしれませんね。
お店には据え置きのテレビが置いてあるところもありましたが、見たいテレビ番組があってもパチンコを打ちたいお客さんも多かったはずです。
「できればパチンコを中座したり帰宅したくない…」
テレビ付きパチンコは、このようなジレンマを一気に解決できる正に「一石二鳥」の人気機種となると思われましたが、期待ほどではなかったようです。
「テレビを見ているとパチンコに集中できない!」・・・。
さらに役物部分にテレビがあるので、遊技としての楽しさはどうしても弱くなっていたのでしょう。
なんともいえない結果ですが、「変わり種機種」として覚えているファンの方もいるのではないでしょうか。
翌昭和53年(1978)には「インベーダーゲーム」が登場するなど、苦境が続くパチンコ業界にあって、この「テレビ付きパチンコ」は80年代前半までパチンコホールに残っていたようです。
それから時代は流れ、台間に設置された情報機器に液晶テレビがついたものが主流となり、イヤホンを耳にしてテレビも見るという風景が普通でしたが、今となってはスマホでワンセグを見ながらプレイしている人が多いかもしれません。
これから5G時代に移行していく中で、どんなパチンコ、パチスロ機種が開発されていくのか、どんなホールサービスが実現されていくのか、イチプレーヤーとして楽しみにしています。